2012.02.20

エイドロン(麻生秀穂先生コラムのご紹介2)

見えるということは不思議だ。眼はよく写真機にたとえられる。ならばファインダーをのぞいているもう一つの眼が私なのか。宇宙の果てが如何なるものか、というパラドックス同様、この問題は厄介だ。古代ギリシャの哲学者エピクロスは、物が見えるということについて、物の表面からエイドロンなる薄い膜が剥がれて空間を浮遊し、眼の中に入り込むから、と説いている。そんなバカな、とも言い切れない。見るという行為を通して、なんらかの物質が遣り取りされることの隠喩として、言葉の上では同様の表現は、日常的である。思い出は、瞼に浮かび、印象は脳裏に焼き付く。眼垢が着く、眼から鱗が落ちる。事実、穴があくほど見つめられると、うなじのあたりに視線を感じ、振り向いたりするものだ。
見えるということの不思議、物が在るということも、我が在るということも、永遠に解けそうもない大問題にはあまり深入りせず、私は難問の解決は先送りして、その日その日を何とか暮している。
哲学者の思索はともかくとして、変幻極まりない現象から、形を捕らえ、色を抽出して、絵画を初めて描いた人はエライと思う。数万年も昔のことである。遺伝子の上からは、人とほとんど同程度にまで進化したとされる猿には、まだ絵は描けない。この差はまさに千里以上のものがある。絵画の発明こそは、すべての文明のさきがけ、この大発明をもっと評価しなくてはいけない。画家の仕事は空間を浮遊するエイドロンを注意深く捕まえては、カンバスの上に丹念につなぎ止めて行くようなものだ。幾度となく薄い絵の具の層を塗り重ねてゆく絵画の技法は、なんとも哲学的ではないか。
東京芸術大学名誉教授 麻生秀穂
平成14年5月静岡新聞夕刊「窓辺」より