2012.03.05

複製(麻生秀穂先生コラムのご紹介3)

私が画家を志した四十数年も前のこと、スイス製のスキラ版画集は図版が格別に美しく垂涎の書であった。神田の古書店でも一冊で一月分の生活費が飛んでしまうほど高価なもので、何日も通いつめては、いよいよ思いを募らせたものだ。意を決して手にした図版をもとに、ピエトロ・ロレンゼッティ(十四世紀イタリアシエナ派の画家)のピエタ図を大学の実習室の壁一杯に、本格的フレスコ技法で模写を試みたことがある。
時は移り、期せずして私は中部イタリアの古都アッシージのサン・フランチェスコを訪れ、かつて夢にまで見た”ピエタ図”の下に茫然とたたずんでいた。泥にまみれて試みた模写とはまるで違う、本物のロレンゼッティがそこに在った。
教会内は多くの壁面で埋め尽くされており、図版ではその意味が理解できなかった左上の虹のような大きな弧は、穹隆(アーチ型)天井のカーブそのものであることもわかった。つまり建築空間を図版から読み取ることは出来なかった訳である。スキラ版は今見ても美しい。しかし書物や図版はそれ自体が一つの作品であり、オリジナルとは本質を異にしていることを、このとき思い知らされた。
今やデジタル技術は本物と並べて見ても区別がつかぬほど精巧な複製図版を可能にした。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、この世に一つしかない物、一回性の中にこそ芸術の価値を説き、印刷や型取りによって複製された芸術作品からはオーラが抜け落ちることを指摘している。ピカソのオリジナル作品はその前に一時でもピカソが位置していたことの証であり、複製や偽者の前にピカソの存在はない。これは重大なことだと私は思う。
複製ばかりの美術館がまかり通る時代、気が付けば私達の身の回りはおびただしい複製品で埋め尽くされてしまった。ついには自身の複製まで出来ようものを。
東京芸術大学名誉教授 麻生秀穂
平成14年6月静岡新聞夕刊「窓辺」より