2012.04.15

絵画の発明と文明(麻生秀穂先生コラムのご紹介4)

弓矢を手にして駆けている二人の男の姿が淡緑色の岸壁に、鉄を鍛えて伸ばしたような力強い線で描かれている。オーストラリア原住民、アボリジニの手になる絵画である。描かれた年代は定かではないが、数万年にわたる彼らの歴史を通して、神聖な場としてのこの美しい岸壁に繰り返し描き続けられたモチーフであろう。
画面右側の男の肢体はすべて鉄錆色の一本の細い線によって描かれている。右足に体重がかかり、やや前のめりの姿勢に支えられた頭部は、まるく小さく塗りつぶされているが口とおぼしきところに切れ込みがあり、わずかに表情がうかがえる。左手には矢をつがえた弓のようなものを掲げている。足の構えと右腕の形からして何かを投げ終わった瞬間であろうか、空中高く一本の槍が舞っている。
もう一人の男はくの字に上体を反らせ、天を仰いでいる頭部はやや大きく口の切れ込みも表情として、より豊かである。首にぶら下げた袋は男のダイナミックな動きと疾駆する速度を暗示するかのように上体から離れていて、石つぶてのようなものが納められている。前方に突き出された右腕には三本の槍が握られ、後方に高く振りかざした左手には前述の男が携えているものと同様の矢をつがえた弓がしっかりと保持されている。腹部は二本の線によって紡錘形の膨らみとしてボリュームが表現され、その中に小さな人の形が幾つも描かれている。
一見して、この不思議な人物は妊婦のように見受けられるが、彼らの生死観として、死者の霊魂は聖霊として男の体内に宿されるとの信仰に由来する。下腹部には男性器が明確に描かれている。バネのようにしなやかな下肢は大地をけって獲物を追い、同時に新たな命の源となるべき聖霊を運ぶための原動力なのである。一切の無駄がはぎ落とされた、簡潔にして優美なこの絵画の中に、人の生の究極の真理が描き尽くされていることに驚かされる。
平面状にわずか数本の線によって形を与えられた絵画の中に込められた豊かな内容、今風にいえば「情報」は数万年の時空を超えてなお、くめども尽きない泉のような深さと広がりをもっている。この絵を前にし、私はことさら絵画の優位性を痛感し、絵画の発明こそは人類の成し得たすべての発明の中で最も重要なものであると確信したものである。
折しもインターネット上で、ニューヨークの作家ジョン・ブロックマン氏の主宰で欧米の名だたる自然科学者たちが人類史上最高の発明、発見は何かについて論争を繰り広げているそうだ。ゼロの発見、地動説、印刷技術、時計、コンピューター、老眼鏡、消しゴムなどのユニークな提案もあるそうだ。
一頭の象を前にして、その一部に触れてきた人の言い分が科学にたとえられるとすれば、芸術は象の全体像を洞察することにある。変転してやまない現実や記憶の中に想起される事柄を平面上に描きだすことの発明こそが人類の成した奇跡の始まりとして、すべての文明はここに帰結される。
ところで、学校教育の場から次第に美術や音楽の時間が削減される一方、コンピューターの導入が推奨されている現実はどうしたものであろうか。まさか、経済効果に目が向けられている訳ではあるまい。かく言うわが東京芸術大学取手校地にも、この春から先端芸術表現科が新設されることとなった。もちろんコンピューターを駆使した新しい芸術の創造も研究テーマの一つである。芸術は時代に先駆けて試行され、あらゆる束縛から解放されていることが望まれるが、それゆえに真の意味での人間性に根差すものでなければならない。
既に私たちの体に聖霊を宿すことはないであろうが、アボリジニの強靭な脚力などものともしない自動車や飛行機で、私たちは一体何をどこに運ぼうとしているのか、生命体としての人間とは何か、そして芸術にもまた洞察すべき根源性が問われている。
東京芸術大学名誉教授 麻生秀穂
平成11年3月茨城新聞「私の時評」より