2012.06.24

東千賀展 ―其の線に、藝術無限をおもふ。―

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東千賀展  HIGASHI Chika Exhibition

平成24年7月4日(水)~8月4日(土) [水木金土:開廊 日月火:休廊] 12:00~18:00

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東千賀展 ―其の線に、藝術無限をおもふ。―

 ドイツルネサンスの画家グリューネヴァルトの画集に、イーゼンハイムの祭壇画を見た東千賀さんは、その「不気味なリアリティー」に「まるで強力な万力で瞼をこじ開けられるような衝撃を受けた」と語っています。
 デューラーと共にドイツルネサンス最大の画家と云われるグリューネヴァルトですが、中でもイーゼンハイムの祭壇画は、中世最後の傑作とされ、その残酷なリアリズムと象徴的な色彩や光の表現に瞠目させられます。
 イーゼンハイムの祭壇画は、「地上の人間の惨苦を神の世界に昇華するための宗教画を逆転させて、神が地上の生の最も惨苦な現実に降り立った光景、そんな光景を描いたのではなかったろうか!」。そして、「絵とはこんなにも深く描き遂げることが出来る世界だったのか!」と、東さんはその衝撃を語り、決定的な視野の転向を迫られています。すぐさま、やむにやまれぬような気持ちで、ものを「描き写すのではなく、刻むとか彫り込むという程の手ごたえを求めて作業に没入」していったのです。(桑沢デザイン研究所 研究レポートNo.15)
 グリューネヴァルトと出会った東さんの感動の文章を読みながら、私自身が名も知らぬ画家櫻井陽司さんの作品と出会った時の感動、そしてそれをきっかけに、突き動かされるようにして始めた画廊ギャルリさわらびの濫觴を思わずにはいられませんでした。
 東さんの「不気味なリアリティー」、「衝撃」、「現実に降り立つ」、「深く描き遂げる」、「刻む」、「彫り込むという程の手ごたえ」といった言葉は、私が最初に出会った櫻井さんのデッサン、戦後まもなく描かれたまるで戦禍から這い出してきたかのような―それはまさしく現実の戦いの中で這いつくばって生きている、鋭敏な眼をした「少年」の肖像を否応無く想起させたのです。そしてその強靭なリアリズムの奥に秘む清浄なるなにものかに思いを至したのです。
 現実にまみえ、現実を見ると言っても、往々にしてその表層にしか目が届いていないことは、美術の世界のみならず有ることですが、現実と仮想或いは虚構の境目が溶けていくような現代という時代にあっては尚更、現実を見るということは如何に難しいことでありましょうか。しかしそのような眼、ものの本質をえぐるような眼を持つことが出来てはじめて、本来詩人は詩人たり、藝術家は藝術家たりえたのではないでしょうか。現実を見る、今を見るということは、即ち過去を見、歴史を見、骨格を見、洞察することでもあり、全てのものは其れに拠って今在る以上、其処が目隠しされてしまえば、見ているはずのものは何ものでもない空虚か偽物と化し、最早藝術的昇華とは無縁ともなりましょう。
 モチーフを真に見ることで、「深く描き遂げる」、「刻む」。そしてそれが「彫り込むという程の手ごたえ」としての作品の誕生となり、其処にこそ生命の輝きを内包することにもなりましょう。手先で拵えるのではなく、自ずと生まれるかのように。
 この度、ギャルリさわらびでは、東千賀展を開催することとなりました。櫻井さんの作品が機縁となりました。
 私が最初に出会った東さんの作品「壁中果」は、まさに「見る」こと、「刻む」ことで、「果」は「壁」の体内に宿り、「壁」は「果」を孕む如くに一体となり、其の線は始まりもなく終りも無く生き続ける畏怖すら湛え、澄んだ光を放っていました。
 「未完の完」という言葉がありますが、いのちある線、その線一本一本の連なりは、生きているからこそ未完であり、未完であるからこその承継があり、連続性がありましょう。「現実に降り立つ」「神」は、永遠にして、人の心の高貴と表裏なのかも知れません。
 東千賀展。“其の線に、藝術無限をおもふ。”
 ご高覧賜りますようご案内申し上げます。                  (平成24年 風待月に 廊主)


ギャルリ さわらび / GALERIE SAWARABI  〒104-0061 東京都中央区銀座1-9-8 奥野ビル2階
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